国語のテキストに出てきた関根弘の「奇態な一歩」という詩について

関根弘「奇態の一歩」

関根弘「奇態の一歩」
どうしてだろう。中学生や高校生のころ、教科書に載っている詩や小説が面白くなかった。おそらく、教科書に載っているというだけの理由で、面白く感じなかったのかもしれない。ところが、今、中学や高校の教科書を読むと、掲載作品の絶妙な取り合わせに感嘆する。きっと僕じしんの文学的なものへの許容度が広がったためだろう。そうした変化は自分ながら好もしく思う。

先日、中3生の国語のテキストに関根弘の「奇態な一歩」という詩が出てきたとき、ぼくはちょっぴりうなった。「この詩、スゴいぞ」だから当然、「この詩人スゴいぞ」ということにもなるのだが、こんな出だしで始まるのだ。

ぼくの腎臓は病院へ逃げてしまったので
週三回 こちらから腎臓に
会いにいかねばならぬ
煩わしいことだが
毎日、通勤している人のことを思えば
これ位のこと忍耐せねばなるまい
 関根弘「奇態な一歩」より引用

詩人・関根弘の詩は入試でもよく扱われる。しかしこの詩人のことをネットで調べてもあまり多くのことは分からない。Wikipediaでも紹介はたったの3行、「列島」「現代詩」などの詩運動のリーダーだったということがかろうじて分かるだけだ。高校国語の副読本『新総合 図説国語』では次のように紹介されている。

『列島』の詩人たちには長谷川龍生・関根弘・黒田喜夫らがいる。彼らは強い社会的関心を持っていたが、詩が一つの幻想であることを把握し、前衛的な方法を採用した。『新総合 図説国語』東京書籍より引用

関根弘は1920年生まれ、没年は1994年。「奇態な一歩」は1989年の詩集『奇態な一歩』の表題作だ。腎臓の透析治療を受けていたのは筆者自身であったろう。

テキストは、冒頭の詩の中の「これ位のこと」とは具体的に何のことですか、と問う。そして半分以上の生徒が「週3回、腎臓に会いに行くこと」と答える。僕はたとえている表現をそのまま解答で使ってはいけないことを説明する。そして残りの問題を解いているとき、生徒たちが大人になって関根弘の詩にまた出会うことがあるだろうかと考える。一度すれ違って終わりにするにはまったくもったいない詩人だと思うから。

奇態な一歩  関根弘

ぼくの腎臓は病院へ逃げてしまったので
週三回 こちらから腎臓に
会いにいかねばならぬ
煩わしいことだが
毎日、通勤している人のことを思えば
これ位のこと忍耐せねばなるまい
はじめは透析針がうまく刺さらなくて
何度も痛い思いをしたが
もっと痛い運命の人のことを考え
目をつむった
やがて周囲がみえてくると
仲間が何人もベッドに枕を並べている
自分一人で世界の不幸を
背負った気になるのは早すぎた
一風呂浴びたような顔をして
帰っていくものがいる
あんな風にぼくもなれるだろうか
生まれ変わることはできない
でも新しく生きはじめたような気がする

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